定外(!)の数々の事象に苛まれ…、計画よりも1ヶ月遅れて、ようやくオフィスの空気が流れ始めたように感じる、今日
この頃です。
この1ヶ月は、まるで番台のように、受付に1人佇んでいた状態で、悶々としてはいたものの、オープン時期を楽しんで過ごしていました。
…が、“意識上”では楽しんでいたつもりでも、全く自覚の無い“無意識”の部分の私は、日毎に“抑圧”を重ねていたようです、苦笑。
先週、オフィスで気分を悪くし、帰宅を試みたものの、電車の中で耐え切れず(…人生で2度目のパニック発作を起こしたらしい…1度目は出産中に。)、何とか途中降車してタクシーに乗り換え(また車中でコッソリ悶絶しつつ…)、とりあえず内科へ向かいました。
数時間後には何事も無かったように、人と会っていたのですが、そのことをきっかけに、現在の自分の身体と心の歯車のズレに対する“警告”を、ようやく感じ取れたのです。
私の心は、本当はとても焦っていたのでしょう… プラス、怒りなど(!)の感情も抱えて収め…。また、その反動で身体の方には、激務を課していたかも知れません。
…確かに、“一生このまま、この静けさと孤独に埋もれてしまうのではないだろうか”、“このまま私1人で子供を食わせて生きて行けるだろうか”etc.…思えば、いろいろなことがよぎっていた気がします、笑。
は、10代後半の頃から、とにかくジっとしているのが苦手になりました。
自分をわざと、そんなにソワソワさせようなどというつもりは、全くないわけです。
でも、そうなると、私は突っ走る。とにかく突っ走る。
あまりにもメジャーとも言える、フロイトによる“es(エス)”の衝動…ホントに無意識。
自分が“向かうべき道”、そして“逢いに行かなくてはならない人達”へ向かいたい、“でも、それは誰?どんな人達?”
という、あまりにも漠然とした指標を掲げて、ひたすら進んできてみました。
そして、それは“今、ここ、ではない場所”にあるという、信念にも似た感覚…。
結果としては…良かったのかな?と、思えてはいますが、、、だいぶ遠回りをする羽目になってしまいました。 でも、この遠回りが無かったら、“今”も無かったのでしょう。
そんな私は、「行動力がある」と表現してもらえることがとても多く…また、自負していたところでもあり、それも極めて論理的に動いているつもりで…。
けれど、それがただその“es”と呼ばれるものに実直だったのかも…と、今だからこそ思う。 そして、その“es”が爆走するのを防ごうと、常に“自我”や、“超自我”が見張り、自分の中で軌道修正していたのでしょう…。 意識上では、単純に理性という言葉になるかも知れないけれど…。
やっぱり、ただ“es”のまんまに走り回っていたら、“形作る”ことや、“結果を出す”ことができない気がしていて…まだ、その言葉を知らない時から。
そして、毎度気付くのは、“辛い”とか、反対に、“気持ちよい”とかをしてる時は、“不安”が消えていたということ…
だから、私のようなヤツは、ポジティブにもネガティブにもやたら走り回ろうとするんだな…と。
つまりは、“今、ここ”という、まさに“現在(今)”の時空間を感じること、それを、まして楽しむなんてことは、とてもできない自分がいたこと…いえ、それは今もそうかも知れません?が…苦笑。
そして、これを書いている、今…。
この20年を振り返りれば…、あれだけの地底の場所(!)から地上へ這い上がってきた私なのだから、少しは自分の頭を撫でながらこの状況をジックリ感じていれば良いのに…と言う自分もいるのですが…。
私の頭と心の中は、今も尚、明日、明後日、来年、10年後…のことばかり考え、この場にジっとしていないのです…よほど私の中にある“不安感”という病の衝動は、それだけ莫大なようです、、、意識において、そうは感じてないんですけどね、苦笑。
“今、ここ” を感じること…カウンセリングにおいて、これまたあまりに有名なロジャーズが用いた表現ですが、健康とされる人々においても、それは簡単そうで、実はなかなか本当の意味ではできないことじゃないかと思う私です。
“今、ここ” と、問われて…次に浮かぶあなたの表現はどのような言葉ですか?
“今”、何を感じますか?
薄井孝子