「 不安・パニック発作、心的外傷(トラウマ)
及び心的外傷後ストレス障害(PTSD)などは、そのベースにある“不安のエネルギー性”の存在により、常時かなりの緊張が高まった状態にあり、心的エネルギーの循環が滞った状態になっていることが窺われます。
身体がそうであるように、心も、“痛み”の感じ方は他人と比較のできないもの…。感じ方や痛みの受容レベルの違いにも、個々のさまざまな条件の違いが関与しています。
例えば、「サイレンの音がするとゾクゾクする」「電車の高架下が歩けない」「排水口が苦手」「尖ったものを見ると落ち着かない」などなど…皆さんも、考えてみると、何か生活の中にそのようなものが見出せるのではないでしょうか。」…感じ方や痛みの受容レベルの違いにも、個々のさまざまな条件の違いが関与し、そこを専門的に細かく見ていくことは重要でしょう。
またまた例えば、5gの石が飛んできて頭に当たったとき、“今、何か飛んできたかな?”程度に感じる人もいれば、“死ぬほど痛い!”と感じる人もいるでしょう。また、その飛んできた石のベクトルや、ぶつかった部位、当たった人の構えや条件によって、実際に体感も異なるわけです。
比較的新しい概念のため、心的外傷(トラウマ)を、まるで単なる“甘え”のように思ってしまう人も、たまにいるようですが、心の傷口を真摯に見つめ、捉えなおすことは、その人にとって決して容易なことではありません。
そのため、一方では心理的な防衛を用いて、とにかく時間だけを進めようとする場合も多く見受けられます。また、他人から「気にしすぎ」「忘れなさい」など言われてしまうことも少なくないようです。
けれども、目に見えなくても、身体の外傷と同じように、出血したまま放置してしまうようなことは、予後へのあまり良くない影響が生じることが考えられます。
傷が修正される作業は大切で、仮に時間軸だけを先に進めても、残された宿題かのように、後にパーソナリティ傾向などで、その人の自覚の無い心理的な問題面として表れてくることもあります。
心的外傷…心が傷つくと、人の感情は、あらゆるネガティブな感情(怒り、悲しみ、悔しさ、不安、恐れetc…)が絡み合って湧き上がります。
その感情の絡み方もまた人ぞれぞれで、例えば、100人の人が同じ事故を目撃しても、ある人は“かなしい”と感じるかも知れないし、また別な人は“くやしい”と感じるかも知れません。また他の人は、思考がパニックになるかも知れないし、ある人には無関係な過去の恐れ感情が再び表れてしまうかも知れません。
普段の社会的刺激を受け止めている“心の受け皿”にヒビが入ったり、割れてしまうようなことがあると、通常のような簡単な刺激を受け止めようとしても、その刺激が、受け皿から漏れてしまい、適切に処理できず、当たり前の行動も自分らしくこなすことができなくなってしまうこともあります。
“世の中の騒ぎすぎ”という、社会的な問題はたくさんありますが…
心的外傷に関しても、確かに、あまりに“他者のせいで”、“社会のせいで”、“傷ついた”と、訴え過ぎることは問題でしょう。
けれども、そのような言動の表出自体が、既に“傷による悲鳴”とも考えられ、その人の心が主観的になりすぎていて、まったく余裕がなくなってしまっていることが示されているかも知れません。たとえその人が、ストレス耐性に欠けるのだとしても、その耐性の引き上げ方も、個々の成長段階として捉えなおす必要があるでしょう。
心的外傷の要因には、めったに起こるはずのない事件事故など、“非日常的な事柄”によるものと、些細な日常生活上にある“日常的な事柄”によるものがあります。
また、必然的(社会的事柄など)で集団的(自分以外の皆も一緒に)に受ける傷と、偶然的(突然、予測されず)で個別的(なぜ自分だけが?!)に受ける傷という違いもあります。
心的外傷がある場合、
自ずと不安や緊張が高まった状態が続き、
自身の持つ本当のエネルギー性を、うまく循環させることが
できにくくなっていることが考えられます。
また、トラウマは必ずしも、
意識上の記憶にはっきりと浮かぶものばかりとも限らず、
無意識的なトラウマの関与も見逃せないものになります。 |